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あなたと私とライフコミューンと らいふこみゅーん誌
「らいふこみゅーん誌」は介護に悩む方やその家族。そして、それを支える人達の為のコミュニケーション誌です。[ 発行日:季刊誌(年4 回1日発行/1,4,7,10月)|発行部数 21,000部]
らいふこみゅーん誌 Vol.11
2006年4月発行 らいふこみゅーん誌 Vol.11外出イベント
スペシャルインタビュー
芳村 真理さん
外出イベント
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在宅介護のお役立ちガイド
心のケアの現場から
体のワンポイントアドバイス
お年寄りの心と体にやさしいクッキング
スペシャルインタビュー
芳村真理さん
80代になって突然、肺癌が見つかった母、寿子さん。その手術から亡くなるまでの約4年間は、明治女の気丈さと明るさを見せつけられたという芳村さん。その日々のなかで、介護をされる人が、できるだけ自立して介護の負担を減らす健康維持や心構えも必要だと感じるという。老いを迎える誰もが自覚したい考えだ。
介護をする側、される側
双方が自立しながら支え合うことがこれからの介護の心得かもしれません。
のんびり大らかな江戸っ子の母
-- お母様の寿子さんがお亡くなりになって、9年が経つそうですが、どんな方だったのでしょうか。
芳村:
母は明治生まれで、日本橋の蛎殻町で生まれ育ちました。人形町は庭のようなもので、古いお店の方からは「イチャちゃん」(寿子さんのニックネーム)なんて呼ばれていました。女学校は四谷の双葉学園に通い、美智子妃殿下のお母様と同級生だったそうで、周囲は皆さん乳母日傘で大事にお育ちになった方ばかりのようでした。そんななかで下町育ちの母は明るく気さくな人柄で人気者だったのではないでしょうか。私の記憶に残る母はのんびりと大らかで、江戸っ子らしい人。そして、いつも趣味良く着物を着こなしている素敵な人でした。

-- 今日はお母様の形見の帯をお持ちいただきましたが、この帯には普段のお母様の思い出が浮かぶそうですね。
芳村:
たしか沖縄返還直後のことだったと思います。仕事で与論島に行ったときに、現地でこの芭蕉布の帯をお土産に買って帰ったんです。今は大変な高値で取り引きされていますが、若かった私にはその価値や良さもたいしてわからず、何気なく買ってきたんです。ところがその帯は周りの人にとても評判が良くて、私のお土産ということもあり、自慢だったのでしょう。あまりに褒められたので、母は臆することなく、半分に切って叔母にあげてしまい、ずっと半巾の作り帯を締めて、夏に大島紬や上布に日傘をさして、人形町あたりで稽古に出かけておりました。そんな潔い人でした。
芭蕉布の帯は手入れが行き届いており、お母様のお気に入りだったのが伝わる。
寿子さんが贈ってくれたお念珠。きちんとした不祝儀物をあつらえてくれた母のありがたみは、お念珠を出すたびに思い出すという。
小唄を教えて家族の生計を支えた元気な母
-- しかし、戦争が始まって宮城県に疎開をされたそうですね。随分とご苦労があったのではないですか。
芳村:
母と父は世田谷におりまして、私たち子どもは知人を頼って宮城県で暮らしました。私が小学校6年で妹二人と兄のお弁当を作ったり、家計を仕切ったりしていたんです。なぜなら母はあるだけお金を使い切ってしまう性分で、なくなったら着物を売ればいいと思っているような人でしたから。仙台で私を連れだしては、お金もないのにシャルル・ボワイエの映画を観ていました。戦争が終わって東京に戻ると、なぜか母の母や父の母、つまり二人の祖母や叔母など8人家族で暮らすようになり、私たちも育ち盛りでますます家計が苦しくなる。それで母は娘時代の稽古事で習った長唄を活かして、小唄を教えるようになったんです。亡くなる前には東京都で一番長く小唄を教えていたのではないかといわれるだけに、お弟子さんもたくさんおりました。

-- お弟子さんをはじめ、周囲の人に慕われていたそうですね。
芳村:
私の同級生のある旅館の女将さんは、私よりも母の所へ出入りしていたようで、本当の母のように思ってくれていたようです。新しい土地でも、近所の人ともすぐに打ち解けてしまう。それに明治生まれの女性にしては、80歳過ぎで、時々ジーンズを履いて歩くようなモダンなところもありました。親子だけれど、私ともベタベタしたつき合いをしない。そんな凛としたところも透かれていたのだと思います。いつも元気ではつらつとしていました。
80歳を過ぎて癌に。呑気を装っていた母
-- そんなお母様がご病気に。しかも癌とわかったときのご家族の様子はどのようでしたか。
芳村:
ヘルペスにかかって病院で検査をしたら、すぐに肺癌であることがわかりました。80歳を過ぎていましたが、化学療法か手術かという話しになり、兄が母の意志を尋ねようとしたけれど、胸がいっぱいになってしまって聞けなかったんです。それを母はちゃんと察していたんですね。帰り際に玄関先で「私、手術しようと思うんだけど」と自分から言ったんです。それで手術当日も池波正太郎の小説と小唄のテープを持ち込むは、手術直後も自分の下の世話は自分でするわ。そしていつも「大丈夫よ」と、私たちに心配をかけまいとしっかりしておりました。

-- 手術は成功したものの、さすがに一人暮らしはさせられないということで、一番下の妹、実子さんと同居することになったんですね。
芳村:
手術後に母に相談したら、妹の実子に来て欲しいと…。お互いに末っ子だし、母は妹に甘えやすかったんですね。そこで私と兄は経済的なサポートや医師との連絡網などを整える方にまわりました。医師や知人に相談して病気や病院、介護について教わりました。高齢者の手術後は美味しいものを食べて免疫力をつけるようにいわれたので、いつも妹は手料理だったんです。だから、時にはお惣菜を買っていって、できるだけ家族や孫も交えて一緒に食事をするようにしていました。町医者とも連携して、いざというときのために酸素ボンベも用意していたんです。
左から、真理さん、寿子さん、実子さん。寿子さんの育った人形町「今半」の前で。
介護される人が甘えない介護は大変
ところが毎日、母に付き添っていた妹がギブアップしはじめました。母は重病人のようには暮らしていないものの、実際には朝の着替えから大変で、妹もさすがに疲れてきた。そこで区の福祉事務所に頼んで週3回、デイケアに来てもらおうということになったんです。ところが福祉事務所の担当者が訪問すると、母は何が何でもきちんと身なりを整えて、お茶をお出しする。すると、介護の必要がないと判断されてしまう。そうこうしているうちに、今度は認知症が少しずつ始まったんです。最初は父の写真を見て「この人誰かしら」とかいい始めた。でも夜寝ていて失禁しないようにシーツの下にパッドが敷いてあると、朝にはそれだけ抜き取って、きちんとたたんで置いてあったりするんです。このような時期には、とても傷つくんだなと本当に申し訳なく切なく思いました。あれだけしっかりしていた母がついには認知症になったことで、妹はすっかりショックを受けてしまいました。
-- 在宅介護は介護する人への負担が大きな問題ですね。
芳村:
このままでは大変だと思って、ある介護施設を訪ねました。実はその施設は母が元気な頃に、寄付やボランティアをしていたのです。快く迎えてくれました。そちらにお世話になって2日後、母は亡くなりました。寝たきりということはなく、最期まで子孝行な母でした。

-- お母様の晩年を振り返って、芳村さんが教わったことはなんですか。
芳村:
人に甘えられない母だから、介護した妹もかえって大変だったと思います。甘えない人に甘えていると、後で後悔することになるんですね。母の肺癌が見つかる前に、「やな咳をするな」と思っていたし、いくら食べても太らないとか脂っこい物が食べたいといっていたことを思い出しました。親が高齢になったら、体にはもっと気遣ってあげるべきだったと思います。それに病気になってはじめて医師からいろいろな知識を教わりましたが、あらかじめ学習しておくことはとても大事だと思います。
昔、母は祖母の床ずれや下の世話をして最期を看取ったので、自分は子どもには絶対に世話をさせたくないといっていました。そのとおり気丈に生き抜いたのです。私もできるだけ健康で、自分で自分の面倒がみられるような歳のとりかたをしていきたい。最期まで母のようにしっかりと自立していけたらと思いますね。
芳村真理さん
芳村真理 よしむら まり
東京都世田谷区出身。モデルで活躍後、女優デビューを果たし「小川宏ショー」「3時のあなた」「料理天国」など司会業でも域を広げる。現在「おもいっきりテレビ」などに出演。山村と都会の架け橋を務める「MORIMORIネットワーク」副代表。

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